Buy Meの話

その姿で踊る彼を見たのは彼がまだ強化選手だったときだ。
最初のジャンプは得意のアクセル。体に調子を訊ねるような長い助走のあと、スピードに乗って軽く跳んだダブルアクセル。それでも着氷はぐらついて、彼が顔をゆがめたのがはっきり見えた。
次はステップ。続けてスピン。相変わらずポジションが美しい。しかしがっちりとプロテクターで固めた膝では本番直前の振りを確認する程度のゆるい滑りしかできない。覚悟はしていたつもりだったが、それでも思い描く姿と現実の差はかくも厳しい。
他人である自分の胸がこんなにも痛むなら、本人はいったいいま、どんな気持ちで滑っているのだろう。
胸の前で両手を重ねる。それを大きく開いていく。バレエの動きで左手だけ再び胸の前に。今度はその手を前へ伸ばす。視線は左手を追って、腕が伸びるほどに少しずつ顔を上に向けた。
――見えてしまった。分かってしまった。いま、彼が伸ばした左手のその先に、彼がずっと抱きしめていたものがあった。それがいま彼の手から離れていってしまった。
鼻の奥がつんとする。痺れたように痛んで、痛みは熱となって目を刺激した。ただ悲しくて悲しくてぼたぼたと涙がこぼれた。
ぼやけた視界の向こうで最後の姿勢のまま彼は止まっていた。伸ばした手の先、遠くへ離れて行ってしまったものをじっと見つめて止まっている。止まっていてくれてよかったと思った。彼のスケートは一瞬だって見逃したくないのに、こんな状態ではきちんと見ていられない。
……でも本当は。本当はそんなことはどうでもよかった。いくら見逃したっていいから、自分なんかに構わなくていいから、まだもっと、ずっと、滑っていてほしかった。彼の氷上の踊りを見ていたかった。
「……泣かせちゃったな」
「……勇利くんが怪我してから、俺はずっと泣いてます」
神様や運命が存在するのなら、そいつらは随分といじわるだ。乗り越えられる苦難しか与えないと言うなら苛烈がすぎる。
「……本当に辞めるとですか」
彼は少しだけ笑った。それが答えだ。切なそうにも悲しそうにも見える笑顔がつらい。けれど仕方ないという諦めをにじませた表情は少しだけ怒りを呼ぶ。
「シングルは無理でもペアとか、アイスダンスなら」
アイスダンスならジャンプは1回転半までしかない。シングルを引退した選手がアイスダンスに転向することはない話ではない。
「向かないよ」
静かな否定。膝の治療をしないと言ったときと同じ顔だった。
「それに僕が滑りたいのはシングルだから。だから、僕のスケートはきょう、ここで終わり」
彼は少しだけフェンスから距離を取ってぐるりと周囲を見まわした。それから自分に向き直り、軽くお辞儀のようなしぐさをする。
あの美しいスケートを滑る人がこれで終わりにするという。観客が自分しかいないこんな場所で。
――こんなひどい話はなか!
「これからどうするとですか」
「うーん、どうしようね。考えないと」
「俺のコーチになってって言ったらなってくれますか」
「可奈子先生はどうするの」
「じゃ、じゃあ! 振付してください!」
「ええ?」
「俺が、俺が滑ります! 俺が、勇利くんの手足になって勇利くんの代わりに踊ります!」

そうして美しい人は連盟に選手登録抹消の申請を出し、たったの16歳で氷の舞台を下りてしまった。