側頭部から流れた血だまりに沈んだ小さな頭は己の不手際の証だった。

既に伝えてある指示は遅滞なく目の前でこなされているから、則宗がここにいる必要はない。戦場ならば最前線と言えるこの場に最高指揮官がいることは周囲に無用な気を使わせるからかえって邪魔になる。

――己のすべきことは。

例えば後方での打ち合わせ、重要人物に顔を見せて恩を売り、周囲との腹の探り合い、今後の人員配置。

けれど一歩も動けない。脱力した小さな体が運ばれて行っても立ち尽くしてしまう。

「日光」

「はい」

学業を修め終えて入ってきたばかりの身内を呼ぶと、歯切れのいい返事が近くからあった。うろたえのない、いつもと同じ芯の通ったいい返事だった。

山鳥毛を呼んできてくれ」

「承知いたしました」

すぐに離れていく足音を聞きながら考える。いつもとなにが違ったのだろう。あの小さな体が影響したのは間違いない。けれどあの子どもとこれまでと、……なにが。

「お呼びでしょうか。山鳥毛参りました」

「そちらの首尾はどうだい」

「万事恙なく。もう30分ほどであちらは撤収できます」

「そうか。……山鳥毛」

「はい」

「この件がすべて片づいたら頭はお前だ」

僕はもうだめだ。一度立ち止まってしまった足に気づいてしまったら、その足を引きずって歩くのは困難だ。潮時を悟れないほど耄碌しないうちに引かないと、大事なものから失っていく。

「……分かりました」

胸の内に沸いたことばをすべて飲み込んで頭を下げた山鳥毛が去って行ってから、そうか、一家の最年少の坊主と同じくらいだったのかと気づいた。

それから投げ出された腕や脚に残る生々しい色の殴打の痕跡。

 

「おや坊主、耳の、なんだねそれは」

右耳に差し込んだものに触られそうになって大きく身を引いた。目の前のじいさんは思いがけない俺の反応に驚いたらしく、触ろうとしていた指先をそのまま宙に浮かせていた。

「あー、ごめん、びっくりさせた?」

驚かせたなら謝るけど、「これ」に関しては簡単に触られては困る。急に触られたら俺がびっくりしてしまう。

赤のメタリックの小さな輪っか。耳の中央にちょこんと収まっているそれは確かにちょっと見はアクセサリーに見えるだろう。

「いや、驚かせたのはこちらだろう。不躾に悪かったな」

このじいさんは実は意外と抜け目ない。一瞬こわばった顔をきちんと見ていたらしい。少し前も浮かない顔だなんて悩みを当てられたし、人のことを良く見ている。

「いや、謝ってもらうほどじゃ……うん、でもまあ、これは触んないで。俺の『耳』だから」

「補聴器か」

「なんでそうなんの!」

「『耳』なのだろう?」

「……いやまあ、聴覚の補助って意味ではそうだけど」

仕事は溜まっておらず、周囲に他の客もいない。まあいいかと右耳に手をかけて小さな輪を外した。ポケットからハンカチを出してその上に乗せて見せる。

「イヤープラグって言うの。耳栓って言えば分かる?」

「ほお。片耳だけ?」

「左は問題ないから」

「右はどうしたんだ、生まれつきか?」

「よく分かんない。昔頭でも打ったのかも」

じいさんが顔をしかめる。痛い話を聞くと自分も痛いから気持ちは分かる。

最初の違和感は中学卒業前後くらいだった。音源に対して真正面に立っても右から聞こえる量が少なかった。あれ? と思ったのがきっかけだった。

聴力検査の左右差はわずかで、数字上は左右とも問題なく正常範囲内だったけれど、左に比べて右耳の聴力が落ちているのは確かで、だから響きがおかしくて数年前から右だけイヤープラグを常用している。

けれど追加検査をしても鼓膜も三半規管も異常がない。主治医は神経かもしれないと言うけれど、確定には手術で開いてみないといけないらしい。そこまでするほど聞こえないわけでも困っているわけでもないので、耳栓で響きを押さえてバランスを取っている。

主治医に言われたわけではなかったが、神経と聞いて幼馴染と通っていた剣道はやめた。打撃を受けることで悪化するのは普通にこわかったし、防具で圧迫された上に打たれる音はそうでなくても響いて痛かった。

「全然覚えてないんだけど、子どものころ大怪我して入院してたし、それかも」

「右耳以外は? 腕とか脚とか」

「問題ないよ」

「そうか」

 

「ずいぶんとたいせつにされていますね」

「懐かない猫のようで憎らしくてかわいいだろう」

「いえ、あなたが」

「うん? そうだよ、僕がかわいがっているんだ」

「いいえ」

会話の意味を分かりかねて顔を上げると、おだやかなほほ笑みにぶつかった。

「あなたが、かれに、たいせつにされていますね」

小豆が冷蔵庫から取り出し則宗へ向けた器には筑前煮が盛られ、「インスタントでいいからみそ汁も!」というメモとインスタント味噌汁の小袋がテープで貼られていた。

思わず立ち上がって冷蔵庫を覗くと、筑前煮が載ったのと色違いの器にひとつは肉じゃが、もうひとつは厚揚げと大根の煮物が盛ってあった。味噌汁はどちらにもついていた。ドリンクホルダーにあったはずの炭酸飲料はなくなり、大きな麦茶のポットが「飲みものはお茶!」のメモとともにでんと鎮座している。

そして正面には先日加州が持ってきて食べ、気に入ったと伝えた色鮮やかな食用花のゼリーが3個――「1日1個!」。

冷蔵庫を開けたまま、普段は近づきもしないキッチンカウンターに寄りかかる。思わずため息が出た。なんとかわいらしい。なんと愛らしい。なんと――自分にはもったいない。それはもう、畏れ多いくらい。けれどどうしようもなく愛おしくてたまらない。

そうだ、僕はあの子は大事だ、大切だ。けれど同じくらい僕もあの子から大切にされていた。たとえ大切の種類が違っても。

にこにことほほ笑む小豆へなんとも不格好な表情を向ける。

「大切にされるというのは落ち着かないものだな」

「『なれ』ですよ。いまはまだくすぐったいかもしれませんが」

「そうかね。……いや、あまり慣れても困るな。君の言う『くすぐったさ』も悪くはない。スプーンを取ってくれ」

差し出されたデザートスプーンを受け取り、冷蔵庫からゼリーをつかんでソファに戻る。

圧着された蓋を開けると光を浴びてゼリーはつやつやと輝いていた。まずひとつめ。ゼリーはあと2個残っている。あしたもうひとつ。あさってに最後のひとつ。3個のゼリーがつるりとのどをすべり落ちて行けば、加州は帰ってくる。

3個目を食べて眠ってしまえば、起きたらきっとあの子は来ている。待ち遠しくて愛おしい。

 こういうこういう則清を…!