「戸棚の上、収納ボックスの裏、壁板との間」
「え?」
「あんたが探してるものじゃないけど」
「見てみたら? いいことあるといいね」

 

「店主はいないよ」

「俺が、店主」
「前に店主は不在だと」
「夏休み前だったからね。テストもあったし、学業優先」
「でも夏休みに入ったから、学業はそこそこにして店主復活、と」 

 

「……ここだったんだ」
「なにか言ったか?」

「見つかった…見つけた」
「見つけてくれて、ありがと」

 

「なにか、御用でしたか」
「……お前さんが店主か」
「? ええ、買付でしばらく留守にしていましたが」
「高校生の子どもがいるだろう、黒髪で赤いピアスをつけた…猫のような」

 

極道の頭が必死に探すものってなんだろう。

薬物関係の資料とか?

「俺に撃たせて」

反動で転がったりしないように柱に体全体を預けて立てた膝を台座代わりにする。

体を傷めないように、その柱と体の間に座り込んだ。小さな体を包むように補助して、狙う照準を支える。

 

「行くのか」

「……うん」

「なにか持って行けるか?」

小さく首を振る。

「そうか」

「じゃあ、これだけ持って行ってくれ」

まだ幼さの残る体を強く抱きしめる。

「熱でも感触でも記憶でも……覚えていられるところまででいいから、持って行ってくれ」

この玄関を一歩出たら、そこで忘れてしまうとしても。その瞬間まで。

「迎えが来るのか?」

「ううん、俺が決めたから、俺が自分で行かないと」

「そうか」

「……ねえ」

「迎えに行く」

「……うん」

「まあ、少しの辛抱だ。すぐに行く」

「うん、来て。早く来て。……俺を見つけて、選んで」

「2205年で、待ってる」

見送って部屋に戻りカレンダーを見る。

「……2205年」

ことしのカレンダーは先日師走に変わったところだ。

「来月じゃないか」

 

政府関係者に見送られて扉をくぐると、その先の案内は狐の妖怪に変わった。

その狐に導かれて進んだ先には刀が並んでいる。

見ずとも決まっている。

深い赤の鞘、四角い鍔。少し小ぶりなひとふり。

「待たせたな」

 

 

 

側頭部から流れた血だまりに沈んだ小さな頭は己の不手際の証だった。

既に伝えてある指示は遅滞なく目の前でこなされているから、則宗がここにいる必要はない。戦場ならば最前線と言えるこの場に最高指揮官がいることは周囲に無用な気を使わせるからかえって邪魔になる。

――己のすべきことは。

例えば後方での打ち合わせ、重要人物に顔を見せて恩を売り、周囲との腹の探り合い、今後の人員配置。

けれど一歩も動けない。脱力した小さな体が運ばれて行っても立ち尽くしてしまう。

「日光」

「はい」

学業を修め終えて入ってきたばかりの身内を呼ぶと、歯切れのいい返事が近くからあった。うろたえのない、いつもと同じ芯の通ったいい返事だった。

山鳥毛を呼んできてくれ」

「承知いたしました」

すぐに離れていく足音を聞きながら考える。いつもとなにが違ったのだろう。あの小さな体が影響したのは間違いない。けれどあの子どもとこれまでと、……なにが。

「お呼びでしょうか。山鳥毛参りました」

「そちらの首尾はどうだい」

「万事恙なく。もう30分ほどであちらは撤収できます」

「そうか。……山鳥毛」

「はい」

「この件がすべて片づいたら頭はお前だ」

僕はもうだめだ。一度立ち止まってしまった足に気づいてしまったら、その足を引きずって歩くのは困難だ。潮時を悟れないほど耄碌しないうちに引かないと、大事なものから失っていく。

「……分かりました」

胸の内に沸いたことばをすべて飲み込んで頭を下げた山鳥毛が去って行ってから、そうか、一家の最年少の坊主と同じくらいだったのかと気づいた。

それから投げ出された腕や脚に残る生々しい色の殴打の痕跡。

 

「おや坊主、耳の、なんだねそれは」

右耳に差し込んだものに触られそうになって大きく身を引いた。目の前のじいさんは思いがけない俺の反応に驚いたらしく、触ろうとしていた指先をそのまま宙に浮かせていた。

「あー、ごめん、びっくりさせた?」

驚かせたなら謝るけど、「これ」に関しては簡単に触られては困る。急に触られたら俺がびっくりしてしまう。

赤のメタリックの小さな輪っか。耳の中央にちょこんと収まっているそれは確かにちょっと見はアクセサリーに見えるだろう。

「いや、驚かせたのはこちらだろう。不躾に悪かったな」

このじいさんは実は意外と抜け目ない。一瞬こわばった顔をきちんと見ていたらしい。少し前も浮かない顔だなんて悩みを当てられたし、人のことを良く見ている。

「いや、謝ってもらうほどじゃ……うん、でもまあ、これは触んないで。俺の『耳』だから」

「補聴器か」

「なんでそうなんの!」

「『耳』なのだろう?」

「……いやまあ、聴覚の補助って意味ではそうだけど」

仕事は溜まっておらず、周囲に他の客もいない。まあいいかと右耳に手をかけて小さな輪を外した。ポケットからハンカチを出してその上に乗せて見せる。

「イヤープラグって言うの。耳栓って言えば分かる?」

「ほお。片耳だけ?」

「左は問題ないから」

「右はどうしたんだ、生まれつきか?」

「よく分かんない。昔頭でも打ったのかも」

じいさんが顔をしかめる。痛い話を聞くと自分も痛いから気持ちは分かる。

最初の違和感は中学卒業前後くらいだった。音源に対して真正面に立っても右から聞こえる量が少なかった。あれ? と思ったのがきっかけだった。

聴力検査の左右差はわずかで、数字上は左右とも問題なく正常範囲内だったけれど、左に比べて右耳の聴力が落ちているのは確かで、だから響きがおかしくて数年前から右だけイヤープラグを常用している。

けれど追加検査をしても鼓膜も三半規管も異常がない。主治医は神経かもしれないと言うけれど、確定には手術で開いてみないといけないらしい。そこまでするほど聞こえないわけでも困っているわけでもないので、耳栓で響きを押さえてバランスを取っている。

主治医に言われたわけではなかったが、神経と聞いて幼馴染と通っていた剣道はやめた。打撃を受けることで悪化するのは普通にこわかったし、防具で圧迫された上に打たれる音はそうでなくても響いて痛かった。

「全然覚えてないんだけど、子どものころ大怪我して入院してたし、それかも」

「右耳以外は? 腕とか脚とか」

「問題ないよ」

「そうか」

 

「ずいぶんとたいせつにされていますね」

「懐かない猫のようで憎らしくてかわいいだろう」

「いえ、あなたが」

「うん? そうだよ、僕がかわいがっているんだ」

「いいえ」

会話の意味を分かりかねて顔を上げると、おだやかなほほ笑みにぶつかった。

「あなたが、かれに、たいせつにされていますね」

小豆が冷蔵庫から取り出し則宗へ向けた器には筑前煮が盛られ、「インスタントでいいからみそ汁も!」というメモとインスタント味噌汁の小袋がテープで貼られていた。

思わず立ち上がって冷蔵庫を覗くと、筑前煮が載ったのと色違いの器にひとつは肉じゃが、もうひとつは厚揚げと大根の煮物が盛ってあった。味噌汁はどちらにもついていた。ドリンクホルダーにあったはずの炭酸飲料はなくなり、大きな麦茶のポットが「飲みものはお茶!」のメモとともにでんと鎮座している。

そして正面には先日加州が持ってきて食べ、気に入ったと伝えた色鮮やかな食用花のゼリーが3個――「1日1個!」。

冷蔵庫を開けたまま、普段は近づきもしないキッチンカウンターに寄りかかる。思わずため息が出た。なんとかわいらしい。なんと愛らしい。なんと――自分にはもったいない。それはもう、畏れ多いくらい。けれどどうしようもなく愛おしくてたまらない。

そうだ、僕はあの子は大事だ、大切だ。けれど同じくらい僕もあの子から大切にされていた。たとえ大切の種類が違っても。

にこにことほほ笑む小豆へなんとも不格好な表情を向ける。

「大切にされるというのは落ち着かないものだな」

「『なれ』ですよ。いまはまだくすぐったいかもしれませんが」

「そうかね。……いや、あまり慣れても困るな。君の言う『くすぐったさ』も悪くはない。スプーンを取ってくれ」

差し出されたデザートスプーンを受け取り、冷蔵庫からゼリーをつかんでソファに戻る。

圧着された蓋を開けると光を浴びてゼリーはつやつやと輝いていた。まずひとつめ。ゼリーはあと2個残っている。あしたもうひとつ。あさってに最後のひとつ。3個のゼリーがつるりとのどをすべり落ちて行けば、加州は帰ってくる。

3個目を食べて眠ってしまえば、起きたらきっとあの子は来ている。待ち遠しくて愛おしい。

 こういうこういう則清を…!

Buy Meの話

その姿で踊る彼を見たのは彼がまだ強化選手だったときだ。
最初のジャンプは得意のアクセル。体に調子を訊ねるような長い助走のあと、スピードに乗って軽く跳んだダブルアクセル。それでも着氷はぐらついて、彼が顔をゆがめたのがはっきり見えた。
次はステップ。続けてスピン。相変わらずポジションが美しい。しかしがっちりとプロテクターで固めた膝では本番直前の振りを確認する程度のゆるい滑りしかできない。覚悟はしていたつもりだったが、それでも思い描く姿と現実の差はかくも厳しい。
他人である自分の胸がこんなにも痛むなら、本人はいったいいま、どんな気持ちで滑っているのだろう。
胸の前で両手を重ねる。それを大きく開いていく。バレエの動きで左手だけ再び胸の前に。今度はその手を前へ伸ばす。視線は左手を追って、腕が伸びるほどに少しずつ顔を上に向けた。
――見えてしまった。分かってしまった。いま、彼が伸ばした左手のその先に、彼がずっと抱きしめていたものがあった。それがいま彼の手から離れていってしまった。
鼻の奥がつんとする。痺れたように痛んで、痛みは熱となって目を刺激した。ただ悲しくて悲しくてぼたぼたと涙がこぼれた。
ぼやけた視界の向こうで最後の姿勢のまま彼は止まっていた。伸ばした手の先、遠くへ離れて行ってしまったものをじっと見つめて止まっている。止まっていてくれてよかったと思った。彼のスケートは一瞬だって見逃したくないのに、こんな状態ではきちんと見ていられない。
……でも本当は。本当はそんなことはどうでもよかった。いくら見逃したっていいから、自分なんかに構わなくていいから、まだもっと、ずっと、滑っていてほしかった。彼の氷上の踊りを見ていたかった。
「……泣かせちゃったな」
「……勇利くんが怪我してから、俺はずっと泣いてます」
神様や運命が存在するのなら、そいつらは随分といじわるだ。乗り越えられる苦難しか与えないと言うなら苛烈がすぎる。
「……本当に辞めるとですか」
彼は少しだけ笑った。それが答えだ。切なそうにも悲しそうにも見える笑顔がつらい。けれど仕方ないという諦めをにじませた表情は少しだけ怒りを呼ぶ。
「シングルは無理でもペアとか、アイスダンスなら」
アイスダンスならジャンプは1回転半までしかない。シングルを引退した選手がアイスダンスに転向することはない話ではない。
「向かないよ」
静かな否定。膝の治療をしないと言ったときと同じ顔だった。
「それに僕が滑りたいのはシングルだから。だから、僕のスケートはきょう、ここで終わり」
彼は少しだけフェンスから距離を取ってぐるりと周囲を見まわした。それから自分に向き直り、軽くお辞儀のようなしぐさをする。
あの美しいスケートを滑る人がこれで終わりにするという。観客が自分しかいないこんな場所で。
――こんなひどい話はなか!
「これからどうするとですか」
「うーん、どうしようね。考えないと」
「俺のコーチになってって言ったらなってくれますか」
「可奈子先生はどうするの」
「じゃ、じゃあ! 振付してください!」
「ええ?」
「俺が、俺が滑ります! 俺が、勇利くんの手足になって勇利くんの代わりに踊ります!」

そうして美しい人は連盟に選手登録抹消の申請を出し、たったの16歳で氷の舞台を下りてしまった。

Все счастливые семьи похожи друг на друга, каждая несчастливая семья несчастлива по-своему.
Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.
「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」

「でもそれってほんとかなあ?」
ロシア語の勉強のために勧められた本を読んでいると、突然ヴィクトルがそんなことを言いだした。
「俺は逆だと思うんだ」
「幸せな家庭はさまざまで、不幸はみんな似てるって?」
「そう。だって結局不幸って、願いが叶わなかったり、生活が成り立たなかったり、病気で苦しんだりってことだろう」
電子辞書を手元に苦心して読んでいた本を閉じる。アンナ・カレーニナ。美しいロシアの貴族夫人が選んで破滅への道を歩む話だ。
「対して幸せは、人によって違う。経済的に困窮していても家族がいれば幸せという人もいるし、成功しなくても挑戦し続けることが楽しいという人もいる」
豊かであることが幸せであるとも限らない、と彼は言う。なるほど、それは確かにそうだ。
成功率の低かったジャンプを練習するのは苦しかったが楽しかったし、莫大な金と引き換えにフィギュアスケートを辞めてくれと言われたら僕はたちまち不幸になる。
「じゃあヴィクトルにとっての幸せと不幸ってなに?」
「知りたい?」
「言いたくなければいいよ」
「わーお、勇利、そういうのはよくないよ。そうやってすぐに引いてしまわないでくれ」
「聞いてほしい?」
「ほしい!」
力いっぱい答えるヴィクトルがおかしくて少し笑ってしまう。
「勇利は俺のこともっと知りたくないの?」
「知りたい!」
くるくると簡単に立場が入れ替わってしまうのも同様だ。
「ヴィクトルにとっての幸せは?」
「俺の家に俺のLifeとLoveがいてくれることかな」
「じゃあ不幸は?」
「俺の家に俺のLifeとLoveがいないこと」
「真面目に!」
「真面目だとも!」
「もー……」
「勇利は、俺のプロフィールをどれだけ知っている?」
「え?」
長年のヴィクトルオタを舐めないでほしい。身長体重年齢生年月日、血液型は非公開、出身地利き手利き足ノービスジュニアシニアの各デビュー年とこれまでの各プログラム、得意なジャンプとスピンとステップ、シューズのメーカーとブレードの種類、好きな食べもの色花音楽衣装ブランド最近感動したものうれしかったこと、スケート以外の趣味特技スポンサーの数来日記録公の場での小ネタ。
指折り数えられる量じゃないボリュームを一気につらつらと並べると、ヴィクトルは「わーお……」と若干呆れを混ぜたような感嘆の声をこぼした。ヴィクトルが聞いたんじゃないか。
「じゃあ勇利、俺の家族のことは知ってる?」
知らなかった。ヴィクトルはどのインタビューでもヤコフコーチやリンクメイトを家族のようなものだと言っていた。回答はいつも優等生で違和感を感じさせないものだったけれど、におわせることすら避けているような様子からヴィクオタの中ではヴィクトル孤児説なんてものがあったくらいだ。
なんて言えばいいのか言葉に困って、黙って首を振る。
「もうひとつ。勇利はLOって知ってる?」
エルオー。
ヴィクトルはローともロウとも発音しなかった。だからLoという名前のものじゃなく、LOおそらくなにかの略称なのだろう。
「Lock On……Local Office、London Overground……Last Order……」
「全部はずれ」
略称がLOになるものを思いつく限り並べてみるけれど、楽しそうに全否定されただけだった。
「もーなに、LOって」
「Lost One」
ヴィクトルはにっこり笑って言った。
「Lost One、だよ。勇利」
Lost One。失われたもの。……なにが?
幸せと不幸せの話をしていたんじゃなかったっけ。失われたものってなに。ヴィクトルのプロフィールや家族の話から、そこへどうつながるの?
エルオー、Lost One。失われたもの。失われたものはなに? ……それとも、だれ?
ぞわっとした。完全オフの真昼間の穏やかな時間なのに、僕はいきなり氷水をかぶったみたいな気持ちになった。
「『ヴィクトル孤児説』、俺も知ってるよ。みんな面白いこと考えるよね」
いつものようにヴィクトルは笑っている。それがいまは少しこわい。
「経験のない人間がこうやって考えるのはナンセンスだけど……実際に孤児だったら、どれだけよかったか……」
「あ、……あのさ、ヴィクトル」
「うん?」
どくどくと嫌な感じに脈打つ心臓を感じながら、精一杯取り繕って声を出す。
「聞いていいのか、分からないんだけど……」
「どうぞ?」
「……ヴィクトルのご両親って、いま、……どうしてる?」
「健在だよ。普通に働いてるはず」
「あ、そうなんだ……」
一瞬少しほっとしたけれど、すぐにはずってなんだって引っかかった。
そりゃヴィクトルはもう28歳でいい大人で、それでなくてもしっかり稼いで独立してるし忙しいから親に会う機会なんてなかなかないのかもしれない。でもたとえば、電話とかメッセージとかで連絡を取り合ったり……。
「もう何年だろうなあ……えーと、19歳のとき手続き関係で会って……それが最後か。とするともう10年近くになるのか」
「最後ってそのあと一度も会ってないの?」
「そうだね」
「なんで」
「用事がないから」
5年間一度も帰らなかった僕が言えたことではないけれど、でもそんな用事がないから会わないって。ロシアにだって帰省の概念はあるはずだ。
考えが表情に出ていたらしい。ヴィクトルは指先だけでそっと僕の頬を撫でて微笑んだ。
「LOだって言っただろう」
「……そのLOってなんなんだよ……」
「俺から振っておいてなんだけど、楽しい話じゃないよ」
「……このままじゃスピンもステップも失敗する」
「それは困るなあ」
世界一のスピンとステップが崩れるのは見たくない、と諦めたように言って僕の髪をかき混ぜた。
「先に言っておくと、不幸ではないんだ。ヴィクトルかわいそう、と思うような話でもない。ひとつの悲劇の類型ではあるかもしれないけれど、どこにでもよくある話だよ。単純に両親は俺に興味がなかったというだけだ」
それが理解できない。産んだ子供に興味がない親がいるのだろうか。ヴィクトルを疑いはしないけれど、とても信じられない。
「分からない、という顔をしているね。でもありえるんだ。スポンサーがつくまでお金は出してくれたしなにかと世話になった人たちではあるけれど、関わると俺も心穏やかではいられないからできるだけ接触しないようにしている」
体内にある重いものを、周囲にはそうと分からないようにして少しだけ吐き出すようなため息。なにかを諦めているヴィクトルという存在を見るのが初めてで胸が痛い。
「家はごくごく普通の一般家庭で、兄と俺と妹の3人きょうだいだった。両親は長男の兄と末っ子長女の妹がすごくかわいかったんだ。俺も……まあどうでもいいってことはなかっただろうけど、2人に比べるとってことはあったね。長谷津に行って、勇利たち家族を見て触れ合って、本当の一般家庭を俺は初めて知ったよ。普通の家ってこういうものか、って思った」
聞いている、と視線で示すほか、僕にできることはない。頷くのも相槌を打つのも、なにか意見を言うのもいまはできかねた。
「俺も結構頑張ったんだ。あからさまに比べられることはたぶんなかったと思うけど、両親の意識が自分にだけ向いていないというのはずっと分かっていた。だから勉強も運動も、スケートを始めてからはスケートも、両親が俺を誇りに思ってくれるようにって。でも駄目だったんだよ。俺が俺である限り、あの人たちは俺に興味がなかった」
「ああ、駄目なんだな、もうなにも、どんなことが起こってもあの人たちの興味関心が俺に向くことはないんだなって思ったのは……14……いや13歳のときか。体調が悪くてリビングのソファで横になっていたんだ。腹痛もあって、うう、お腹痛い、って少しだけ唸っていた。どうなったと思う? ……父親は無視だ。母親はうるさいからなにも言うなって言ったんだ」
愛する両親からそんなことを言われるなんて13歳の少年にはショックだったから、そのときのことは一生覚えている。
「見返りを期待するわけじゃないけど、注いだ愛情に否定や無関心や文句ばかりを返されていたら嫌にもなるだろう。鋼鉄の心臓でもないんだ。向けた愛情を否定されて止めればよかったって何度思ったか。でも俺はただの少年だった。あのときはたまたまタイミングが悪かったんだって、今度こそって、何度も思った。そのたびに後悔した」

「18歳のとき、もう本当にやめようと決めた。もう、可能な限り関わらないで生きようって。……これだけいろいろあったのに遅いと思う? こんな人たちだったけど俺には唯一の両親だったんだ。……だからやめようやめようって思いながらもなかなか諦められなかったんだ」

I bought you

Buy MEという存在がある。
ヴィクトルがそれを知ったのはあるジュニアの世界大会だった。
同門であるユーリ・プリセツキーと同世代の少年が、Buy MEを滑っていたのだ。
ヴィクトルの記憶では、前年までの彼は悪くはないがあまりぱっとしない選手だった。実力はある、けれど少しだけ足りない。そういう印象。それが今シーズン、ショートプログラムの滑りがぐっと良くなった。
堂々とした佇まいと小柄な体躯を大きく見せる演技。ブレのないスピンとエッジエラーを取られようのないステップは見事のひと言で、コレオシークエンスに至ってはレベル判定のないのが惜しく、観客も歓声を上げるしかない完成度だった。
滑り終えた少年は大きくガッツポーズを決めて、滑走口で待つ指導者に駆け寄り抱きついていた。
点数は当然大きく伸び、勢いのままフリーもノーミスで滑りきって、パーソナルベストはもちろん初めてのメダルも手に入れた。
指導や成長期の少年の吸収力は素晴らしい。しかしそれ以上に振付がいいのだとすぐに気づいた。彼の持ち味を生かし、苦手をカバーする構成。演技としても美しい。その表現は見る者へ明らかに訴えかけ、曲にもよく合っている。振付をした有能なコレオグラファーは誰だろうと、ヴィクトルは関係者エリアの入り口へ向かう。
(K……Kenjiro M……)
貼り出された各選手のプログラム表の中から少年の名前を探す。
見つけたプログラムのコレオグラファーにあったのは、ヴィクトルが求めた個人の名ではなくBuy MEという文字だった。
(「Buy ME」……?)
この世界では多くが個人の名前で活動している。振付師の経歴はさまざまなことが多いが、どこかのリンクやクラブに所属しているかフリーかという違いはあっても、名前を出さないというのは珍しい。
むず、とヴィクトルの好奇心が目を覚ます。
個人名で活動しない場合はどんな場合か。
前職または本職が元々複数人のユニットで活動している場合。スケートもしくはダンス全般の振付を専門とする事務所の場合。あとは……よほど名前を隠したい場合。
しかし最後については、ヴィクトルにはその必要性の生じる状態が想像できなかった。そもそも本名を隠したいなら偽名でいい。木を隠すには森の中。偽名だろうと個人名なら簡単に埋没してしまえる。そんな中でユニット名を使えば却って目立つ。
さあて、どんな理由があるのかな。
選手控室に向かいながら手元のスマートフォンで検索をかける。この会場内で疑問を同じくする人たちによるリアルタイムのコメントがいくつか見られ、それらを流し読みしてスクロールしていくとひとつのURLが表示されていた。
「次こそ負けんけんね!」
「やっと追いついたやつがなに言ってんだ。まあでも待っててやるよ!」
「吠え面かいていられるんもいまのうちばい!」
突然飛び込んできたアジア訛りの英語に顔を上げると、控室の前でユーリとどこかの少年が話をしているところだった。少年はスタッフに呼ばれたのか、母国語で返事をしてユーリに手を振りそのまま行ってしまう。少年らしい体躯のユーリと差のない小柄な体は、元気よくセットされた黒髪と一緒にあっという間に離れていった。
「……友達?」
「あー……なんだ、子犬?」
悩みながらユーリが選んだ表現は、一瞬すれ違っただけのヴィクトルにも的確だと思えた。しかし自身だってまだ子猫のようなユーリがそれを言うのかと思うと、ほほえましさとおかしさを隠しきれない。子犬と子猫がじゃれ合っていたら誰だって顔がゆるむだろう。
「なに笑ってやがる。つーかアンタはどこ行ってたんだよ、ヤコフが探してたぞ」
「入り口でプログラム表を見てきたんだよ。ヤコフがこっちに来たなら気づいたと思うけど」
「珍しいな。他人のプログラムなんていつもは興味ないだろ」
「まあね。今回は面白いものが見れたから」
「面白いもの?」
「銅メダルの子のショートプログラム。去年はあんな滑りをする子じゃなかったと思って」
「ああ、ケンジロウか」
「知ってるの?」
「いま話してたやつ。ケンジロウ・ミナミ」
ユーリの言葉に思わず勢いよく顔を上げ、少年の走り去った方を見る。しかし当然のことながら既に彼の姿はない。
「てかよく覚えてたな。ジュニアなんか興味なかっただろ」
ああ、うん、そうだったけど有力選手はシニアに上がったら競うことになるだろう。ユーリの台詞を半分聞き流しながらそんな風に答えた気がする。
惜しかった。もう少し早く控室に向かえば振りつけられた人間から直接Buy MEのことを聞けたのに。振付のこと、名前のこと、Buy ME自体のこと。聞きたいことはいくつもある。
バンケットで彼を捕まえれば聞けるだろうか。しかしこれまで直接面識のない他国のシニアの選手がジュニアの選手を捕まえるのもどうだろうか。ケンジロウと親しいらしいユーリについてきてもらうか。それはちょっとおかしくないか。逆ではないか。
「なんだよ、ケンジロウがどうかしたか」
「いや、彼はどうもしないよ。ただ彼のショートの振付が」
「ああ、Buy ME」
「知ってるの!?」
思わず飛びつくように食いついてしまった。珍しくユーリが驚いた顔をしている。
「あ、ああ、知ってる。これだろ」
ユーリがスマートフォンに表示させたのは、先ほどヴィクトルが見つけたURL。そのサイトの名前がBuy MEだった。なるほど、コレオグラファー欄の名前はここから来ていたのか。ひとつ納得する。
Buy ME――わたしを買って。
英語でつづられたシンプルなサイトには曲の名前と時間が羅列されており、曲名をクリックすると構成の概要が書かれたページが開いた。jump1、jump2+COMBO、CoSp、jump3、Sp、ChSq……。
ヴィクトルは頬杖をついてパソコンの画面に見入る。招待されていたバンケットに銅メダリストの少年がいないと分かって、あいさつもそこそこにさっさと帰ってきたのだ。面倒くさい酒席で関係者に笑顔を振りまくのは疲れる。それよりいまは、気になってしかたないBuy MEのことを知りたかった。
パソコンで開き直したサイトは、思ったより多くのタイトルが並んでいた。フィギュアスケートとしては有名な曲から、クラシック、讃美歌、バレエのタイトル曲まで。その中のいくつかには打ち消し線が引かれ、sold outの文字と動画サイトのリンクがある。
ひとつを開く。タイトルは鏡。シニアのアイスダンスだ。つかず離れず、氷上の社交ダンスに相応しい振り付けだ。しかし、ヴィクトルにはリンクの端と端をタイトル通り鏡になって滑っているように思えた。
やわらかかったピアノの音が徐々に鋭くなるにつれて振り付けも苛烈さを増し、見るものにもそれを強いている。鏡だ。鏡の向こうから強く問いかけられる。お前は誰だ。私は私だ。私と同じお前は誰だ。――誰だ!
音が突然切り替わってはっとする。演技が終わって万雷の拍手が鳴り響いているのだ。スペインのアイスダンサーが元来のラテンの陽気さを手放して、古典悲劇のようなシリアスを演じ切っていた。
動画のキャプションにはペアの名前と大会名、開催年月日が書かれていた。20xx年。昨年だ。
再びBuy MEへ戻って、次はTraumereiに並んだリンクを開く。こちらはノービスの女の子が年齢相応の幼さでかわいらしい演技を披露していた。
(……振り幅が大きい)
見るものまで責め立てるようなシニアのアイスダンスから、ただかわいらしいだけの感想でいいノービスのシングル。これは本当に複数人の共同名義なのかもしれないと思う。対象に合わせた振り付けを行うのは基本だが、いくらかはコレオグラファーの個性が出るものだろう。しかしふたつの動画からはそれらしきものが感じられない。
あれこれと答えの出ない考えをめぐらせながら3個目の動画を開く。
「……クリス?」
思いがけないことに映っていたのは友人だった。しかも彼は明らかにカメラを意識して、こちらに手を振ったりしている。映像自体は少し暗く、周囲に観客もない。普段の練習風景のワンカットに見えた。
4個目は一覧の最後にそっと置かれていた。タイトルは「LO」。広いリンクの全体が映るように設置されたカメラの奥に、ぽつんと一人の人物が音楽の始まりを待っていた。

集中力が切れて後半が雑。

Buy MEという存在がある。
ヴィクトルがそれを知ったのはあるジュニアの大会だった。
同門であるユーリ・プリセツキーと同世代の少年が、Buy MEを滑っていたのだ。
ヴィクトルの記憶では、前年までの彼は悪くはないがあまりぱっとしない選手だった。それが今シーズン、ショートプログラムの滑りがぐっと良くなった。点数が大きく伸び、勢いのままフリーもノーミスで滑りきり、パーソナルベストはもちろん初めてのメダルも手に入れた。
振付がいいのだとすぐに気づいた。少年の持ち味を生かし、苦手をカバーする構成。演技としても美しい。曲によくあっている。振付をした有能なコレオグラファーは誰だろうと、プログラム表を見るとBuy MEの文字があった。
はてBuy MEとは?
どこかのリンクに所属していたとしても、この世界ではほぼ全員が個人名で活動している。Buy MEがまさか個人名であるはずはないなら、振付を専門とする事務所かグループか。
すぐさま手元のスマートフォンで検索をすると、同じ疑問を持った人々によるリアルタイムのコメントの中に、ひとつのURLが浮かび上がっていた。
サイトの名前はストレートにBuy MEだった。
Buy ME――わたしを買って。
英語でつづられたシンプルなサイトには曲の名前と時間が羅列されており、いくつかの線で打ち消されたタイトルの横にはsold outの文字と動画サイトのリンク。
Bought YOU――というわけか。

この間のこれをちょっと。
ヴィクトル22歳、勇利17歳、ユーリ&南くん15歳(年齢少し変更)