歌う降旗くん

必要な準備にかかる時間から逆算して、ぎりぎりの時間にインターホンを押したのは意地か、もしくは最後の抵抗だった。インターホンマイクの向こうに立った声に、マスクをしたまま「俺」とだけぶっきらぼうに応えると、相手は愉快で堪らないと言った様子で「なあに、それ」と言った。
ドア1枚の向こう、笑いながら鍵が開けられて数時間前に別れたばかりの声の主と顔を合わせる。相手は細めていた目をしばたたかせて、あら、と声に出さずに言った。「なに」不機嫌を隠しもせず、その視線に単音をぶつけた。相手は一瞬だけは驚いたものの、またあの、愉快そうな顔をした。
「渋った割にやる気じゃない」
俺が雑に脱ぎ捨てたスニーカーを揃えて笑う。上り口に一足だけ残されていたスリッパに足を入れて、リュックのサイドポケットに差し込んであったミネラルウォーターを引っ張り出した。マスクをずらしてひと口の半分、飲むよりは口の中を潤すために含んでゆっくり喉の奥に落とし「やるなら本気で」そう言うと相手は心底面白そうに、「やっぱりあんたに頼んでよかったわ」と頭を撫でた。自分とそう変わらない身長の女性に頭を撫でられるのはちょっと、あまり、いい気分じゃない。けれど逆らえないのは、
「降旗ぁ、だーれー?」
廊下の奥から呼ぶ声がする。
「光樹! 本日の主役のご到着です」リビングのドアを開け放ちながら相手が言うと、ほぼ同じタイミングでわっと小さく声が上がった。
「あいさつはちゃんとしなさいね」
この人が俺の姉だからだ。

本当にやる気ね。茶化す台詞に先ほどと一言一句違わない言葉を返してやる。「やるなら」
「本気で」
ね。と言葉尻を奪った姉が目を細めた。
「あんたに決めてよかったって、撮影終わったあとも思わせてよ」

いつどんな時でも、歌は最初の1音目が大事だ。これを外せば目立つし、こちらのモチベーションも上がらない。最初のアタックが針の穴に糸を通すような正確さで乗れば、以降はほとんど自然とついてくるようなものだ。モチベーションだってうなぎ上りだし、単純に歌っていて気分もいい。

歳の離れたお姉さんいたらいいなーという妄想と、バスケにはさっぱり活かせない特技があったらいいなーという妄想がドッキング。
この話の中のお姉さんは、降旗中3(15歳)時に大学4年(22歳)。メディア芸術系の科の映像専攻。卒業制作の映像を弟をモデルに撮るお人。
この映像はのちのちコンペに出品され、お姉さんはそれで評価されてスペイン国費留学。映像は渋谷とかの街頭ビジョンで他の出品作と一緒にどどーんと流される。
弟は友達と一緒のときにうっかりそれを目撃し、盛大に飲みものを噴出する。
「ちょっ、えっえええええー!!!?」
「は? え? フリ、どうしたんだ?」
「いやっ! なんでもない!」
目元口元のアップカット多め+ポイントメイク濃い目+ウイッグでぱっと見では降旗とは分からない。けどまあ見てれば分からないこともないよね。
「姉ちゃん! どういうこと!」
「コンペ。コンペで賞もらったからいまスペインなんだっつの。つーわけで時差考えろ」ガッチャン。
お姉ちゃん横暴。
映像はのちのちつべにもうpされて(コンペ事務局の手により)テレビの小さなコーナーでもちょろっと紹介されて、結構みんな見てたり。
「なに観てんだ?」
「これです」
「ブフォ」
「どうしたフリ」
「いやなんでも」
「これ、好きなんですよね。映像も歌声もきれいで」
「あ、俺も知ってる。結構いいよな」
「…勘弁してください…」
「なにが?」
カラオケで歌ういまどきのもそこそこうまいけど、真骨頂はクラシック系・テンポゆっくりめ、長音の多い曲だったらいいんじゃないかな。

あー楽しいーこういう妄想がいちばん楽しいー。