兄との記憶の最初は、いつも音で始まる。
空気を鋭く切り裂く素振りの音、あえて激しく打ち合う竹刀の音、気勢を上げる芯のこもった声、隙を探り合う音のない足音と呼吸音、そして無音の空間の音。
幼い降旗にとって退屈は耐え難かったが、乱してはいけない静寂というものがあることを知った。直接の衝撃を受けてはいないのに、体の中心がしびれたように動けなかった。


その日、降旗が妙に携帯を気にしているのに、最初に気づいたのはやはり黒子だった。
朝から少しでも時間が空けば、そわそわとスマートフォンを触って表情を変えている。練習には集中しているが、同時にどこか気がそぞろな面もある。
「なにかあったんですか」
気がかりなことがあるかと昼食時に訊ねてみれば、降旗はぱちりとひとつ、猫目をしばたたかせたあと、少々ばつの悪そうな顔をした。
「あー…ごめん、きょう練習に集中できてなかったな」
「いえ、いまのところそんなには。ですがこのままでは怪我につながらないとも限りませんし」
「ん、気をつける」
「家のことですか? それとも友達の? もし降旗くんがよければ、話してみませんか」
話して楽になることもあると言えば、降旗は、かえって言い出した黒子が驚くほどおおげさに手と首を振った。
「違う違う! わー、俺、そんな心配っつか深刻そうだった?」
「かなり気にしては見えましたね」
「ああ…うん、気にしてはいる。心配っていうのも、まあ、あながち的外れでもないんだけど」
不安と緊張とどちらだろうと、適切な表現を探して、弁当の箸を咥えたまま降旗は腕を組む。
そうしてしばらく「うむむ」と唸っていたが、それが主題ではなかったと思い出したのか、そうじゃなかったとばかりにぱっと顔を上げた。
「心配させてごめんな、ありがとう」
おうまぶしい。
あまりの輝きに思わず一瞬、内心の口調も崩壊する。はにかんで言う笑顔がまぶしくて、顔の前に手を掲げるほどだ。しかし黒子の内心を知らない降旗は、おかずの玉子焼きを口に運び、もぐもぐと咀嚼してから、
「兄貴が」
とのたまった。
このひと言で、固まって昼食を広げてはいたものの、少し離れた位置にいた伊月がまず気づいた。2年同士の雑談の輪から外れはしないが、自身は口をつぐみ、意識を降旗と黒子に向けた。
すると次に気づくのは日向だった。伊月のダジャレへのツッコミという負担が減ると、落ち着いて食事ができる。ふと静かに食事ができていることに気づき、伊月を見、伊月の意識の先を追う。
そのあとは大きな差もなく芋づる式だ。リコ、土田、水戸部、小金井、木吉、福田、河原。黒子の隣に座る火神が気づかないのは、食事に集中しているためで、「らしさ」ということでご愛嬌だ。
周囲の意識をかっさらっていることは、ただ降旗だけが気づいていない。とうに気づいている黒子は周囲とアイコンタクトの上、疑問点に的確に水を向けながら会話を誘導していく。
「お兄さんがいたんですね」
「うん、ちょっと年離れてるんだけど」
「ちなみに、おいくつですか」
「21。だからいまは6歳差」
「結構離れていますね」
「来週には5歳差になるよ」
「ああ、誕生日ですね。僕たちもお祝いしますので覚悟しててください」
「誕生日って覚悟して迎えるものだったっけ?」
「それはともかく。お兄さんがどうかしたんですか?」
「うん。心配してもらったんだけど、本当に悪い話じゃなくて、むしろいい話なんだ。でも勝負だからやっぱり不安だったり、勝手にこっちが緊張したりして」
はて、勝負とは? と黒子が首を傾げると、降旗は傍らに置いていたスマホを操作し、「これに出てるんだ」とくるりと画面の向きを変えて差し出した。
「『全日本剣道選手権大会』」
「ええええええ!」
スマホに表示された文字を黒子が読み上げた途端、見守っていた周囲が一瞬にして騒々しくなった。


驚きのあまり取り落とされた箸弁当飲みものetc、悲鳴や絶叫の手前のような驚愕や感嘆etc。
周囲の意識が揃って自身へ向けられていたとは少しも気づかなかった降旗は、突然のことに驚きのあまり飛び上がった。実際に数センチ浮いたと自分では思った。
散らかした昼食の片づけもそこそこに、とりあえずスマホを持った黒子の周囲に集まってくる。
降旗が表示させたのは大会の主催者のホームページで、試合中の写真や動画、赤い線を引かれたトーナメント、残念ながらバスケ部員には読みかたがよく分からないが、スコアのような表までがリアルタイムで更新されているようだった。
大変親切なことに顔写真入りの選手一覧まであり、さらには海外メディア向けにまったく同じものが英文で書かれたページもある。
画面をスクロールさせて選手一覧を順に見ていくと、確かに東京代表に「降旗」の名前があった。年齢は先ほど言っていたとおり21歳。顔写真は……確かに目元がよく似ている。
「……降旗直樹、某大学3年、21歳。剣歴、選手権大会初出場、学生大会個人戦第二位、得意技は面、構えは中段」
再び黒子がプロフィールを読み上げると、周囲から「おおー…」と声がもれる。
写真では防具で顔がはっきりしないが、動画を見ると、他の高位の段の選手のような円熟した重みには欠けたが、それでもどっしりと構えて引けは取らない。むしろ若々しさやはつらつとした機動性で優位があるように見えた。
引かず、探り、揺さぶり、相手の隙は一瞬たりとて見逃さない。その一瞬に飛び込むと同時に振り下ろされた剣先は、相手の防具の中心を鋭く打った。
すぐさま3人の審判の旗が同時に上がり、試合は決着をみたようだった。
スマホを持った黒子も、覗き込んでいた誰も、圧倒されてなかなか感想も出てこない。試合は長くかかったようにも、一瞬のできごとだったようにも思えた。
男子生徒が必修で受ける、授業の剣道とは比較にもならない。駆け引きではない、礼と魂と心と命のやり取り。まさしく武の道を体現して見えた。