獣の臭いだ。

当たりにひどい臭いをまき散らし、喉の奥で吸い吐く生ぬるい呼吸でそれは前を目指していた。
目指していたと言っても目的のあるわけではなし、ただ足の先にさらなる一歩を踏み出すことをくり返していただけだ。
激しい風雨の春の嵐の中、形のない黒いものを尾に引きながら、また、ぞろりと引きずるような一歩を踏み出した。

「さて、今度はどこですか」
宗三はペンを取り、教員用デスクの抽斗から校内配置図を出して広げた。配置図には既に複数の書き込みがある。
「北校舎だ。特別教室棟の地学室前」
表情を引き締めた薬研が答えた。
「臭いと言おうか気配と言おうか……視線……いや違うな、悪意、か」
「悪意」
配置図を指先でなぞりながら地学室を探していた宗三の手が止まる。顔を上げて薬研を見れば、幾分険しい顔でうなずいた。
移動教室で生物室に向かっていたと薬研は言う。生物室は特別教室棟の地学室と同じ階にあり、間にそれぞれの準備室と科学室を挟んで階の端にある。
薬研の所属する1年2組からは渡り廊下を渡ってすぐ左手の階段を2階に上り、ロの字の一画目を始点に向かう経路が標準だ。
「2階の床を踏んだあたりでもういやな感じがした。地学室の教室後ろの扉の前に足を下した瞬間、肌が粟立った。一瞬で中てられた」
いままでの比じゃなかったと薬研は締めくくった。思い出しでもしたのか、片手でもう一方の腕をさする。
宗三もペンを持ったまま考え込む。階に入ったときから。地学室前に差し掛かった瞬間。いままでの比ではない――悪意。
「……増幅している……」
「可能性はある。範囲が広くなっているのか影響力が強くなっているのか」
またはその両方か。
言葉にはしなかったがふたりとも同じことを考えた。
このまま膨れ上がっていったら、いつか手出しさえできなくなる可能性もある。その前に早くなんとかしなければいけない。けれど正体不明では打つ手を考えることさえできないのだ。
宗三が深く長い溜息を吐いた。
「もどかしく歯がゆいですね」
「ああ。地道な探索を続けるしかないな」
「そうだ、薬研、あなた気配や臭いは追えないんですか」
「やってみたけどだめだな。春の嵐で臭いも気配も飛んじまってる」
「そうですか。まったく忌々しい」

「ところでおひいさん、生物室に行って俺っちの教科書を取ってきちゃくれないか。クラスメイトが預かってくれてるんだ――すげえ顔だな」
「……やですよ。だってここからだと地学室の前を通るじゃないですか」
「たぶんもうあそこにはいないと思うぜ」
「なぜですか」
「勘」
「……あなたの勘は当たりますからねえ……」
「俺はこのまま早退するぜ。外から敷地をぐるっと見てまわって帰る」
「教科書を受け取って鞄まで持って来いと?」
「察しがいいねえ」
「……分かりました。行ってきます。ついでに地学室の様子を見て――薬研、あなたは1時間はここで休んでいきなさい」
「平気だぜ?」
「鏡を見てから言いなさい。その間に主に連絡をして保護者の迎えと、向こうでの検査の準備を整えてもらいましょう」
「保護者って」
「もちろん一期一振ですよ」
「……女子に見られたら騒ぎになりそうだな」

「それはものの腐す臭いではないのか?」
「腐ったものが自立して動いていたら、それは起き上がりだ。俺たちの管轄ではないだろう。石切丸かにっかり青江の出番だ」
「さすがに起き上がりまで任されても困るなあ」
「遡行軍ではない、検非違使のようなまだ見ぬ第三勢力の可能性は?」
「違う」
「その根拠は」
「……まだ勘だ。けれど5人揃って『違う』と思っている」
「全員一致の勘などないだろう?」

「増員、いえ一時的な派遣で構いませんので、ひとりこちらに寄越していただきたい」
「誰を?」
「――腹芸のできる狸を」

へし切長谷部、宗三左文字、燭台切光忠、薬研藤四郎、鶴丸国永。選ばれた5人に審神者が出した指示はふたつ。ひとつは潜入を伴う最短でも1ヶ月以上の遠征。もうひとつは、日々の報告とは別に、最長でも10日に一度は本丸へ戻ること。
短期間で片がつかなかった場合、遠征期間がどれほどのものとなるかも分からない。いままでにない、ひとところへの超長期滞在がつくもの身にどのような影響を与えるかも未知数だ。
長期遠征出発前と出発後も定期的に本丸でデータを取り、変化や異常が現れたら即対応する。そのための最大猶予期間が10日だ。
同時に、5人のうちの誰かひとりでも本丸に戻っている日は第二部隊が警備に出る取り決めだった。
用心に用心を重ねるのだと審神者は言った。
「では、出発前の装備点検を行います」
第二部隊長の一期一振が声をかけると、本丸前庭に集った面々が各々「おう」と声を上げる。
「刀装、通信機、身隠守」
通信機は余所の本丸でも使われているが、身隠守はこの本丸の審神者特製だ。学校という特殊な閉鎖空間とその周囲への出陣であるため、人目を避けることが肝要となる。この身隠守を持っていると、その時代の人間からは文字どおり身を隠すことができる。
一期一振が言うのに合わせて、それぞれひとつずつ手を当てて確認する。

審神者は舞台装置。