I bought you

Buy MEという存在がある。
ヴィクトルがそれを知ったのはあるジュニアの世界大会だった。
同門であるユーリ・プリセツキーと同世代の少年が、Buy MEを滑っていたのだ。
ヴィクトルの記憶では、前年までの彼は悪くはないがあまりぱっとしない選手だった。実力はある、けれど少しだけ足りない。そういう印象。それが今シーズン、ショートプログラムの滑りがぐっと良くなった。
堂々とした佇まいと小柄な体躯を大きく見せる演技。ブレのないスピンとエッジエラーを取られようのないステップは見事のひと言で、コレオシークエンスに至ってはレベル判定のないのが惜しく、観客も歓声を上げるしかない完成度だった。
滑り終えた少年は大きくガッツポーズを決めて、滑走口で待つ指導者に駆け寄り抱きついていた。
点数は当然大きく伸び、勢いのままフリーもノーミスで滑りきって、パーソナルベストはもちろん初めてのメダルも手に入れた。
指導や成長期の少年の吸収力は素晴らしい。しかしそれ以上に振付がいいのだとすぐに気づいた。彼の持ち味を生かし、苦手をカバーする構成。演技としても美しい。その表現は見る者へ明らかに訴えかけ、曲にもよく合っている。振付をした有能なコレオグラファーは誰だろうと、ヴィクトルは関係者エリアの入り口へ向かう。
(K……Kenjiro M……)
貼り出された各選手のプログラム表の中から少年の名前を探す。
見つけたプログラムのコレオグラファーにあったのは、ヴィクトルが求めた個人の名ではなくBuy MEという文字だった。
(「Buy ME」……?)
この世界では多くが個人の名前で活動している。振付師の経歴はさまざまなことが多いが、どこかのリンクやクラブに所属しているかフリーかという違いはあっても、名前を出さないというのは珍しい。
むず、とヴィクトルの好奇心が目を覚ます。
個人名で活動しない場合はどんな場合か。
前職または本職が元々複数人のユニットで活動している場合。スケートもしくはダンス全般の振付を専門とする事務所の場合。あとは……よほど名前を隠したい場合。
しかし最後については、ヴィクトルにはその必要性の生じる状態が想像できなかった。そもそも本名を隠したいなら偽名でいい。木を隠すには森の中。偽名だろうと個人名なら簡単に埋没してしまえる。そんな中でユニット名を使えば却って目立つ。
さあて、どんな理由があるのかな。
選手控室に向かいながら手元のスマートフォンで検索をかける。この会場内で疑問を同じくする人たちによるリアルタイムのコメントがいくつか見られ、それらを流し読みしてスクロールしていくとひとつのURLが表示されていた。
「次こそ負けんけんね!」
「やっと追いついたやつがなに言ってんだ。まあでも待っててやるよ!」
「吠え面かいていられるんもいまのうちばい!」
突然飛び込んできたアジア訛りの英語に顔を上げると、控室の前でユーリとどこかの少年が話をしているところだった。少年はスタッフに呼ばれたのか、母国語で返事をしてユーリに手を振りそのまま行ってしまう。少年らしい体躯のユーリと差のない小柄な体は、元気よくセットされた黒髪と一緒にあっという間に離れていった。
「……友達?」
「あー……なんだ、子犬?」
悩みながらユーリが選んだ表現は、一瞬すれ違っただけのヴィクトルにも的確だと思えた。しかし自身だってまだ子猫のようなユーリがそれを言うのかと思うと、ほほえましさとおかしさを隠しきれない。子犬と子猫がじゃれ合っていたら誰だって顔がゆるむだろう。
「なに笑ってやがる。つーかアンタはどこ行ってたんだよ、ヤコフが探してたぞ」
「入り口でプログラム表を見てきたんだよ。ヤコフがこっちに来たなら気づいたと思うけど」
「珍しいな。他人のプログラムなんていつもは興味ないだろ」
「まあね。今回は面白いものが見れたから」
「面白いもの?」
「銅メダルの子のショートプログラム。去年はあんな滑りをする子じゃなかったと思って」
「ああ、ケンジロウか」
「知ってるの?」
「いま話してたやつ。ケンジロウ・ミナミ」
ユーリの言葉に思わず勢いよく顔を上げ、少年の走り去った方を見る。しかし当然のことながら既に彼の姿はない。
「てかよく覚えてたな。ジュニアなんか興味なかっただろ」
ああ、うん、そうだったけど有力選手はシニアに上がったら競うことになるだろう。ユーリの台詞を半分聞き流しながらそんな風に答えた気がする。
惜しかった。もう少し早く控室に向かえば振りつけられた人間から直接Buy MEのことを聞けたのに。振付のこと、名前のこと、Buy ME自体のこと。聞きたいことはいくつもある。
バンケットで彼を捕まえれば聞けるだろうか。しかしこれまで直接面識のない他国のシニアの選手がジュニアの選手を捕まえるのもどうだろうか。ケンジロウと親しいらしいユーリについてきてもらうか。それはちょっとおかしくないか。逆ではないか。
「なんだよ、ケンジロウがどうかしたか」
「いや、彼はどうもしないよ。ただ彼のショートの振付が」
「ああ、Buy ME」
「知ってるの!?」
思わず飛びつくように食いついてしまった。珍しくユーリが驚いた顔をしている。
「あ、ああ、知ってる。これだろ」
ユーリがスマートフォンに表示させたのは、先ほどヴィクトルが見つけたURL。そのサイトの名前がBuy MEだった。なるほど、コレオグラファー欄の名前はここから来ていたのか。ひとつ納得する。
Buy ME――わたしを買って。
英語でつづられたシンプルなサイトには曲の名前と時間が羅列されており、曲名をクリックすると構成の概要が書かれたページが開いた。jump1、jump2+COMBO、CoSp、jump3、Sp、ChSq……。
ヴィクトルは頬杖をついてパソコンの画面に見入る。招待されていたバンケットに銅メダリストの少年がいないと分かって、あいさつもそこそこにさっさと帰ってきたのだ。面倒くさい酒席で関係者に笑顔を振りまくのは疲れる。それよりいまは、気になってしかたないBuy MEのことを知りたかった。
パソコンで開き直したサイトは、思ったより多くのタイトルが並んでいた。フィギュアスケートとしては有名な曲から、クラシック、讃美歌、バレエのタイトル曲まで。その中のいくつかには打ち消し線が引かれ、sold outの文字と動画サイトのリンクがある。
ひとつを開く。タイトルは鏡。シニアのアイスダンスだ。つかず離れず、氷上の社交ダンスに相応しい振り付けだ。しかし、ヴィクトルにはリンクの端と端をタイトル通り鏡になって滑っているように思えた。
やわらかかったピアノの音が徐々に鋭くなるにつれて振り付けも苛烈さを増し、見るものにもそれを強いている。鏡だ。鏡の向こうから強く問いかけられる。お前は誰だ。私は私だ。私と同じお前は誰だ。――誰だ!
音が突然切り替わってはっとする。演技が終わって万雷の拍手が鳴り響いているのだ。スペインのアイスダンサーが元来のラテンの陽気さを手放して、古典悲劇のようなシリアスを演じ切っていた。
動画のキャプションにはペアの名前と大会名、開催年月日が書かれていた。20xx年。昨年だ。
再びBuy MEへ戻って、次はTraumereiに並んだリンクを開く。こちらはノービスの女の子が年齢相応の幼さでかわいらしい演技を披露していた。
(……振り幅が大きい)
見るものまで責め立てるようなシニアのアイスダンスから、ただかわいらしいだけの感想でいいノービスのシングル。これは本当に複数人の共同名義なのかもしれないと思う。対象に合わせた振り付けを行うのは基本だが、いくらかはコレオグラファーの個性が出るものだろう。しかしふたつの動画からはそれらしきものが感じられない。
あれこれと答えの出ない考えをめぐらせながら3個目の動画を開く。
「……クリス?」
思いがけないことに映っていたのは友人だった。しかも彼は明らかにカメラを意識して、こちらに手を振ったりしている。映像自体は少し暗く、周囲に観客もない。普段の練習風景のワンカットに見えた。
4個目は一覧の最後にそっと置かれていた。タイトルは「LO」。広いリンクの全体が映るように設置されたカメラの奥に、ぽつんと一人の人物が音楽の始まりを待っていた。

集中力が切れて後半が雑。