唐突に覚書

「写真を1枚、撮らせてもらっても?」
愛用のコンパクトカメラを手に尋ねれば、彼は少々怪訝な表情を見せた。どうも最初から、常に如才なく微笑んでいる印象が強かったので、珍しいものを見たという気持ちになった。
「もちろん最中じゃないですよ。普通の、なんでもないワンショットです」
「理由を聞かせてくれるかな?」
ネクタイを抜き取り、ジャケットをかけた壁際のフックからソファに戻ってくる。表情はすでに完璧に取り繕われ、アルカイックな笑みだ。
「俺の記憶のためです」
毎日、さまざまな人が店にやってくる。さまざまな人が降旗を選び、抱いていく。以前会ったことのある人でも、日々、顔や雰囲気が変化している。
流れていく毎日、ただ体の上を通過していくだけの人。こんな仕事だ、仲間は覚えておきたいどころかすぐさま忘れ去ってしまいたいと考えるほうが多い。しかし降旗は違った。一期一会だからこそ、流れ作業のように過ごして忘れてしまいたくない。
「どんな人と出会って、どんな話をして、どんな風に同じ時間を過ごしたのか…覚えておかないと、こうしていることが時間の浪費のように思えて」
小さくて狭いソファの上で、向かい合うように座る人は背もたれに腕をまわして静かに話を聞いていた。
空いていた手が、すい、と持ち上がり降旗の足に触れる。
「でもこれは君の労働だろう?」
「はい、労働です。けど同時にご縁であり出会いでもあります」
時間は有限ですから。まっすぐ見つめ返しながら言えば、彼はその視線でなにかをはかったらしかった。そしてそれは、彼の納得に足るものだったらしい。ややあってから、
「…どうぞ?」
静かな答えが返された。
「ありがとうございます」
「ただし、撮ったものは見せてくれるかな」
「それはもちろん。1枚だけ、という約束の証拠に、いまのデータの前後を確認しますか?」
「証拠と確認は必要ないけれど、君の写真には興味があるな」
どうぞとカメラを差し出せば、ありがとうと軽い一言で受け取られた。ボタンを押しながら、1枚ずつ彼は目を通した。
被写体の様子はさまざまだ。着衣のまま飲みものを飲んでいる男、降旗と相手のツーショット、食事の風景、枕に伏せて携帯電話を見ている姿、あえて最中に撮られたと思われるもの。
「君は君が相手をするすべての人にこうやって許可を求めているのかい?」
「はい。勝手に撮ったら盗撮ですから」
「どれくらいの人が撮らせてくれる?」
「半分…いえ4割くらいですかね」
降旗が彼に言った理由に嘘はない。降旗はこの仕事を、労働であるが縁であり出会いであると本当に思っている。
写真というのは証拠だ。有無を言わせぬ、目に見える形として残る証拠。それが知らず抑止力になるのか、写真を撮らせてほしいと言うと、撮影の許可が下りても下りなくても、ひどいことをされる確率がぐっと下がった。
店の仲間に降旗と同じことをしているものはいない。彼らと話をしていると、不思議と降旗は、この仕事で嫌な思いをしていることが少ないと気づいた。
最初は本当に記憶のための撮影だったが、思わぬ副産物があった。

「手を出して」
言われるままに差し出した手に落とされたのはSDカードだった。反射的に受け取ってから彼を見上げると、使って、と微笑まれる。
「よかったら」
「え、いいんですか」
「プレゼントだよ」
好意を簡単に受けていいのかと降旗がためらっている間に、彼はカメラと渡したばかりのカードを取り上げると、いま入っているものとさっさと差し替えてしまった。新しいカードの入ったカメラと、それまで入っていたSDを降旗の手に戻して、隣に腰掛ける。
「好きに使ってくれ。それで、君がよければ撮ったものを僕に見せてほしい」
戻されたカメラで記録データを確認すると、当然だが「データがありません」と表示された。本当にまっさらの、新品のカードだ。
「ありがとうございます。…じゃあ、さっそく記念の1枚目なんてどうですか?」

「あ、降旗。お前今週出勤しなくていいぞ」
「えっ、クビですか」
「ちげーよばか。例の常連さんが1週間連続指名だと。でも本人は仕事で海外だってさ。一応ホテルは押さえてあるから、そこに遊びに行ってもいいし、家でごろごろしてても好きにしろと」
ホテル行っても誰もいないけどな。店長はカウンター内の引き出しから預かったカードキーを取り出し、降旗に軽く投げて寄越した。
1週間と言えば1回3万円の夜のロング料金が7回、3万5000円の昼のロング料金が7回だ。1日貸切にしても6万円。雑費を引いたあとの降旗の取り分は、夜のロングだけでも10万円をゆうに超える。それがごろごろしていても懐に転がり込んでくるとは。
金持ちっていうのは酔狂だよなあとこぼしながら店長は掃除を再開したが、降旗は事情が呑み込めずスケールの大きさに茫然とするばかりだ。
「あ、でも最後の日の夜だけはホテルにいてくれって言ってたな」
帰国の日だろうから、精々ねぎらってご奉仕して来いよ。この店にいまさら上品もないが、店長はにやにやといやらしく笑って手を振った。


突然思い浮かんだ、また別の形のビッチ旗くん。ボーイズバー(ウリセンバー)でバイトする降旗くん。
これはマスクドではなく本当のビッチ。