単発ネタ(昔書いたのをサルベージその4)

灼熱

心臓が破裂しそうだ。
それくらい全力で、運転免許を取得してからは久しく走っていない距離を走り続けていた。
思考が追いつけないくらいの全力疾走をしながらその胸の内では不安や疑心、それからなぜ、という思いがぐるぐると渦巻いていた。どうして。なぜ。悪い夢は現実の吉兆だと言われていたじゃないか。夢は人に話すと現実にならないと言うじゃないか。
餌をついばんでいたのか、一画に集まっていた鳩が一斉に飛び立つ羽音に思考に沈み込んでいた意識が引き戻される。はっとして思わず走り出してから初めて足を止めると顎を汗が伝った。日差しはきつくじりじりと地を灼くように照らしている。この暑さはまだ長く続くのだろう。
こめかみから頬の横を伝わっていく汗をシャツの袖で乱暴に拭って、また走りだした。

目的の建物に入るとさすがにそこはひやりとしていた。外気とは十度も違おうかという涼しさに一瞬背が震える。あるいはもしかしたら。薄暗く見えるのもひとえにこちらの主観によるものだろう。
ポケットから携帯電話を取り出して二つ折りを開く。受信して確認してそして開いたままのメールで再度場所を確認して、走らないように、しかしできる限りの早歩きで階段へと足を向けた。エレベーターなんて待っていられない。待ったほうが結果的には早くとも、はやる気持ちが足を止めてはいられなかった。

目的の階数まで階段を一気に駆け上がり、そのフロアにたどり着く。他の人の迷惑にならないように静かな早足で歩を進めていたけれど、次第にその足も重くなった。未だに信じられない気持ちが胸中を占めてる。一番確実なニュースソースからもらった連絡だというのに。それでもまさか、と思わないではいられない。
もし、もし、――本当に本当なのだとすれば。会いたい、会いたくない。相反する気持ちがぐるりと体内を循環して足にとどまっていく。かせでもつけられたかのように歩が重い。
ナースステーションの前を通り過ぎ、奥から二番目の部屋。メールの内容が本当ならばもっと人が集まっていてもいいだろうに、その部屋の前には誰ひとりとしておらず、ひっそりとしていた。遠目には中も静かで窺い知ることもできない。

重い足を引きずっても、建物の中だから大した距離ではない。遠目に見ていたその部屋の扉はもう目の前にある。覚悟なんてまだ。会いたい。だけど会えるのか。会うことができるのか。果たしてその覚悟は。
ぐるぐるとくり返される思考や感情がためらいになる。いっそこのまま帰ったほうがいいのかとも考える。けれどそれは後悔をするだろうと思った。不安、恐れ、ショック。おそらく確実に打ちのめされる。それでも足はその向きを変えなかった。
結局、いつまでも立ち尽くしたままでもいられないという思考にたどり着いたそのときに、一際の勇気を全身から絞り出して扉をノックした。
どうぞ、と返事がある。

先ほど薄暗いと思った室内と同じ建物の中だというのにその室内には光が差し込み、やけに明るく見えた。周囲は静かな中でも人のいる気配がし、ざわついてもいるというのに、室内はまるで防音であるかのように音が遠くに聞こえている。
メールをくれた張本人は傍らのパイプ椅子に腰掛けていた。その大きな手で、色の抜けた白い小さな手を包み込んでいる。――体中の血液という血液が跳ねた気がした。内側から心臓が激しく胸を叩く。
わずかに視線だけを向けたきりこちらを振り返りもせず、その人が久しぶりだなと言う。 成熟した大人の男の人の低く穏やかな声。のどがからからに渇いてなかなか返事ができない。随分と不自然な間を空けてからようやく、かすれた声がかろうじて出せた。たった二音を真ん中でぶつ切りにした返事だったけれど。
そのまままた少しの間、肩にかけた鞄のショルダーストラップ部分を強く握り締めて入り口近くに立ち尽くしていた。かける言葉も、かけられる言葉もない。その人は握っている手の持ち主を見、自分はその人の手を、手が握っている手を、見ていた。ただ遠くでざわめきが聞こえる。
しばらくして、見られるかとその人が言った。目的語も何もない。なんとか室内には入ったものの入り口脇で立ち尽くしていた自分には、やはりまだ覚悟はなかった。投げかけられた言葉にぐっと息をつめ、奥歯を痛いほど強く噛み締めた。覚悟ができるのか、できないのか。記憶の上書きができるのか。――その人の言葉からたっぷり一分はすぎてから、ようやくまたかすれた声ではいと言えた。

ゆっくりと一歩一歩を確実に踏んで、扉の脇からその人の座る椅子の隣まで行く。足音が妙に大きい。心臓が大きく早く叩く音も耳元で聞こえるようだ。
これさえなければ、とその人は握った左手をそのままにして右手を頬に伸ばした。
これさえなければ、きれいだろう?
真っ白の頬に真っ白なガーゼ。左頬のほとんどを覆うほどの大きなガーゼ。けれどそれ以外には何もない。ガーゼに滲むものも、そのほかに目立ったものも。まるでうそのような姿だった。現実にあまりにも現実感が伴わず、夢でも見ているのかと思った。固めた覚悟も肩透かしを食らったような気がした。だってこんな姿で。揺すって呼べば、もしかして。
目を覚ましそうだろう?
思考を読まれたようなタイミングに、びくりと大きく肩を揺らした。その人は相変わらずこちらを見ず、しかし自分の反応に苦笑したような口調で言う。俺も、そう思ったよ、と。
その一言と共にその人が伸ばした右手は決して自分に向けられたものではないのに、けれど確かに分かってしまった。おだやかであたたかくて慈愛に満ちていると。その手がやわらかくやさしく、失った熱や色を分け与え包み込むように右頬に触れた。その手の動きだけですべて分かってしまった。
知らなかった。知ってしまった。その人たちが――その人が、表面では一見淡白にも接しながら、その内面では深く彼女を愛し、大切にしていたことを。自分は知らなかった。自分が淡く寄せていた好意なんてどうあがいても叶うことがなかったのだと、その手を見ただけで分かってしまった。きっと二人きりの時はこういう風に触れて、そして触れられていたのだろう。だけどもう、それはもう、二度と、かけらも届かない。
胸をわしづかみにされた気持ちになって、感情と思考がごちゃ混ぜになってわけが分からなくなって、永く眠る彼女にか、それとも届かぬ愛情を変わりなく手に込めるその人にか、ぼろりと大粒の涙をこぼして泣いた。

(say something)
三者の、他人の目をとおした誰かの恋愛、というのが実は結構好きなようです。まあこれは悲恋ですけれども、幸せな恋愛についても同じく。孝子さんの話もそういえばそうでした。公善が見た、孝子さんの恋愛ときょうだい愛。
タイトルの灼熱は、真夏の暑さ、彼女とその人の隠された愛情の熱さ、少年の伝えられないまま潰えた感情と流した涙の熱さ、です。きっとたぶん、どの熱も燃えるように熱かったはず。

萌えシチュ、設定、というものは数年くらいでは変化しないようす。